多井の昔
多井の昔の話です。
多井今昔
現在の多井と昭和中期の多井の家屋配置図です。昭和の中頃までは58軒あったが、現在、11軒です。夏には帰省するところが4・5軒はあります。今年度中に町営住宅が3軒できる予定です。
学校道(旧多井崎線)

写真は多井・崎道路(学校道)の多井側の入り口の所です。この薮の先は新道が横切っていて、その先へはいけません。この道路は大正2年にできたそうです。
この道路ができるまでの崎・多井間は崎の大浦海岸から海岸線を波に洗われないように歩き、ハシロの川原沿いに多井の峰(ズドド)まで登り、そこから多井入り口の墓地付近までほぼ直線に下っている道を使用していました。私が知っている頃は、崎側は海岸線ではなく、畑の中に小道がありました。そこを過ぎると多井の峰までの道と、峰から墓地付近までの道は昔のままで、歩くのではなく、崎側は崖道をよじ登り、多井側は駆け下るという表現がぴったりの道です。
多井・崎道路ができるまでの通学児童は、大浦海岸線が波で洗われ通行不能のときは、「松川」から「荒神山(アラカミヤマ)」を経る山路を登り、「アーボコ」を通って学校へ行っていたそうです。明治37年4月までは多井分教場があったそうなので、それから大正2年までの間の子供たちは大変だったと思います。でも今と異なり、牧畑が整備されていたので、松川からの道も遠回りになるけど、そんなに苦労ではなかったかもしれません。私も崎の堤から松川を通って多井まで帰ったことがあります。多井の子供たちは、長い間、小学校2キロ・中学校8キロ・高校10キロを通学してたのもこの頃のDNAかもしれません。
他の資料によれば、崎・知々井道路が明治32年、多井・布施道路が明治36年に拡幅改修が行われたとあります。明治37年に海士郡8か村が合併して海士村になるまで、上方の戸長役場が布施村にあったので、多井・布施村間の道路が、多井・崎間の道路よりは優先順位が高かったのかも知れません。多井・崎間の道路の工事は当時の住民の労力のみで完成したそうです。一方、崎・知々井線開通の頃行われた崎区内の大規模な里道改修工事は工費が三千円余りになり、区民の負担が増えたため、各戸で鶏を3羽ずつ飼い卵を供出して負債返済に充てたそうです。(一部、昭和61年発行の「崎誌」より)
多井の川原
昭和52年8月の所謂8・8豪雨までの多井の川原は、ホタル・トンボ等の幼虫や小魚、タニシ等の小動物が豊富で自然溢れる場所でした。夏はホタルやトンボが飛び交い、ウナギも取れました。水道が整備されるまでの間は、川原へ降り、洗濯したり、大根を洗ったりしていました。昭和52年の所謂8.8豪雨のあとは、コンクリートの3面張になってしまい小動物は見当たりません。
昭和61年発行の崎誌によると、明治の末期まで多井は、石垣も橋もない多井川が中央を流れているため二分されており、両岸の行き来は水量が減ったとき、川の両側を伝い歩いて行き来していたそうです。(「多井の川」ではなく「多井の川原(かわら)」と呼んでいた所以かもしれません)。明治の末期、崎の渡辺醇三氏より「多井川の石垣を造るよう」指示があり、多井川が形造られたそうです。当時、橋は船の底板を使用しており、増水時には橋が流され、またそれを拾ってきて再使用していたそうです。このように川を挟んで多井が形成されていたため、高田神社と多井神社があり、川が整備された時代に神社も合祀されたと思われます。
古い地図では、多井にはもう一つ「水谷(ミズタン)川」があり、昔は田んぼに水を供給していたが今は痕跡だけ残っている。また「イグチ」にもため池があったがどうなったのか…。
崎・多井の牧畑
承久3年、後鳥羽上皇隠岐御遷幸の砌、崎の三穂神社から海士の源福寺へ御越しの途中、放牧中の牛が角突き合わせているのをご覧になったとの言い伝えがあるように、その頃から牛は放牧されていた。慶長年間検地の際には、完全な牧畑が形成され年貢の対象となっていたそうです。江戸後期の「隠岐国海士郡碕村高反別帳」によると、「碕村」は、高田牧・森原牧・中牧・碕山牧に分かれていたそうです。牧と牧の境の垣は海岸まで続き例えば森原牧と中牧の垣は、三穂神社の横で地下(じげ)を二分していて、人と牛は地下の中で共存していた。
昭和の頃は、大越牧・高田牧・中牧・空牧・崎山牧と五つの区画に分かれ、崎・多井両区の共同入会権に基き運営されていた。五つの牧は順次耕作と放牧を行う、我が国でも珍しい輪転式牧畑と呼ばれる珍しいシステムだった。山の斜面は放牧にも耕作にも適するように整地されていた。牧と牧の境や牧とケイチ(開地、畑)の境や崖の近くなどには垣がめぐらされており、「牧の垣し」も重要な仕事だった。牧を横切る道路には木戸が設置されていて、牛が民家や耕作中の畑に入らないようになっていた。小さい頃は木戸の開け閉めが大変だった記憶がある。
減反政策による稲作の廃止、高齢化等による労働力の減少で、農業は衰退し、農耕用の牛を飼う家もなくなり、牧畑にも杉が植えられるか放置されるかし、現在は跡形もなくなってしまった。少なくても江戸時代から続いていたと思われる牧畑が昭和の時代に無くなったことをと思うとちょっと寂しくなる。
相撲の話
小さいころ、浜本やのじいさんや小路のじいさん達が相撲が強かったという話を聞いたことがある。当時子供の目では、普通の「じいさん」だったので俄かには信じられなかった。確たる文献はないが、崎広報等によると、明治時代から崎村(さきむら)は相撲どころで有名だった。(明治37年中ノ島の8か村が合併して1郡1島1村の海士郡海士村に改称してからも、崎は「崎村(さきむら)」と呼んでいる)。天保年間から、明治・大正にかけて隠岐は相撲が盛んで各村から代表を出し競い合っていたらしい。以下、崎部落誌から抜粋。
天保年間、林平という強力無比の力士がおり、盛時は28貫の体格で隠岐に並ぶものなく、山陰でも稀な力士とうたわれていた。次いで、善八、関屋の孫八、ほてやの要四郎、今元屋の吉五郎、庄五郎の力士が出た。善八は「善八の五体めぎ」といわれ、盛時23貫で棚橋家に生まれた。庄五郎は吹田家に生まれ、6尺の長身で、相手の首を抱いてかわず掛けで倒すのが得意であった。
次は、龍風時代だった。龍風(吹田多市)は近来の名力士で当時の相撲界を風靡した。渡辺新太郎氏の寄進にかかる龍風の碑が現存している。
明治10年正月に中良・森の旦那が、龍風と福井直木屋と取り組みさせようとの話があって高田神社の遷宮相撲となった。当日は見物客で多井部落には入り切れないほどの賑わいであったと伝えられている。森の旦那は前日から崎の中新屋に泊まり、当日は家の郎党に負われて中良の前を通る、男衆や女衆の見守る中を白足袋を履いた足をばたばたさせ、自信をもって高田神社へ向かったと伝えられている。(途中略)
大正の後半は浜本屋(佐渡伊勢松)の時代である。彼は小兵で16貫が限度であった。技に秀れ土俵中央で相手を倒す実に非凡な名力士で輝かしい足跡を残した。小路(沢谷儀太郎)は20貫、四つに組み死足を見て崩す相撲で役相撲をつとめた(以下省略)。
如何ですか。多井の高田神社の遷宮で相撲大会が行われた当時、崎・多井間の道路はまだ整備されてなかったので、森の旦那や中良の旦那、見に来る人も大変だったでしょうね。
大山入会地
昭和49年刊行の海士町史によれば、美田村大山の入会慣行は、尼子氏の時代に成文化され始まったそうです。崎村(崎・多井)は大山の鉢ケ浦を割り当てられており、春秋二回山林の下刈りや植林をしていた。作業道具や弁当をつかりに入れて、漁業組合のダンべ(団平船)二隻に分乗し、朝早くから出かけ皆一体となって働いた。昭和50年代に老齢化が進んだため「ジゲシゴト」としての大山の賦役は廃止され、日当制で大山の手入れが行われていたが、いつのころからか、入会権を譲渡(売買)し現在入会地はありません(詳細調査中)。
砲台
これも海士町史からの受け売りだが、多井の人は誰も知らない(?)本当の話、多井に「砲台(大筒場)」があった(らしい)。弘化3年(1846年)異国船の警備として、海士郡崎村、知夫郡別府村別府、美田村市部・船引、浦郷村本郷に島前大筒場が設けられた。崎の中良家に砲術方御小屋敷地買上げと、大筒の預かり証文がある。それによると、崎のマツサキ、アヲヤ浦、ヤト浦、ヲゝイ浦が大筒場となっていて、弘化4年4月の日付で大筒一挺、3年後の嘉永2年に、百目玉御鉄砲一挺と神虎御筒一挺を預かっている。付随する、砲車、組台、装填棒、火薬箱、真木(砲架材)なども一緒である。他に文書があるかどうか確認していないが、大砲二挺と百目玉鉄砲一挺では、大筒場4か所に配備するには足りないので、本当に多井に大筒場が築造されたかどうかは不明だが、候補地であったことは事実である。